弁証法的行動療法の思い出――精神科医Aと臨床心理士Bの対話――
B:先生、これから出版されるご著書では、BPDの治療法についてかなり幅広くレビューされているそうですね。
A:ええ。自分の治療アプローチを書く以上、これまでに提唱されてきたBPDの治療法が、実際にはどこまで効果を示してきたのかを、きちんと確認しておく必要があると思ったんです。
B:やはり一番重視されたのは、コクランレビューですか。
A:その通りです。2020年のコクランレポートは、現時点で最も信頼できる文献レビューでしょう。弁証法的行動療法(DBT)、メンタライゼーションに基づく治療(MBT)、転移焦点化精神療法(TFP)、情動予測可能性と問題解決のための体系的トレーニング(STEPPS)、スキーマ療法など、16種類以上の「BPDに特異的」とされる治療法が取り上げられています。
B:それだけ多くの治療法が比較されていると、違いもはっきりしそうですが……。
A:ところが結果は、ある意味で非常に衝撃的でした。通常の治療と比べた場合、どの治療法も効果はほぼ同一だったのです。
B:同一、というのは……?
A:「BPD症状の(全般的な)重篤度」、つまり診断基準に含まれる9つの症状が、全体としてやや和らぐ、という点においてのみ、です。自傷行為の減少、自殺関連行動の減少、心理社会的能力の向上、抑うつ症状――これらについては、臨床的に意味のある改善は認められていません。
B:それは……かなり厳しい結果ですね。
A:全く効果がない、というわけではありませんけどね。たとえ統計的には治療の効果があるように見えても、改善の幅が小さすぎて、現実の生活においてはほとんど意味がないということです。しかも、その唯一の効果である「症状の全般的改善」も、治療終了後には持続しない可能性がある、という指摘もなされています。
B:先生はその結果を、どう受け止められたんですか。
A:正直に言えば、感慨深いものがありました。特に、弁証法的行動療法については。
B:先生の世代にとって、DBTは特別な存在ですよね。
A:ええ。1990年代にDBTが登場したとき、私も含めて多くの治療者が、大きな刺激と興奮を覚えました。BPDを「感情調節システムの機能不全」と捉える生物社会理論、「受容」と「変化」という相反する要素を同時に扱おうとする姿勢。治療の選択肢が精神分析的治療しかなかった当時としては、非常に新鮮でした。
B:RCT(ランダム化比較試験)で効果が示された、最初の治療法でもありましたよね。
A:そうです。それも画期的でした。治療からのドロップアウト率が低い、という点も含めて、「これは違うぞ」と感じさせるだけの説得力があった。
B:後になって、そのドロップアウト率の話にはからくりがあったと分かったようですが……。
Aええ。「ドロップアウト」の定義が、他の治療法とは異なっていたんです。同じ定義で比べれば、他の治療法と大差はなかった。それを知るまでは、私も「それだけでも大きな成果だ」と思っていましたよ。
B:治療のギミックも、確かに魅力的です。
A:マインドフルネス(mindfullness)を治療の中心に据えたこともそうですね。当時は定訳がなくて、パーリ語の sati の日本語訳に基づいて「気づき」と訳していたのも、今となっては懐かしい。
B:「BPDはアメリカ流症候群だ」という発言とか、合気道の比喩とか……面白い発想がたくさんありましたよね。
A:リネハンの発想には、精神分析的治療法の枠を軽々と飛び越える自由さがありました。その影響は、後に登場したMBTやTFPにも、はっきり見て取れます。表向きは精神力動的とされていても、認知行動療法的な発想を“密輸入”しているのは明らかでしたから。
B:ただ、日本では当初、理解している人は少なかったですよね。
A:ええ。今から25年ほど前、厚労省の治療ガイドライン策定の班会議で、私がDBTを初めて紹介したときもそうでした。私が当然のようにリネハンと呼んだら、「Linehanは“ラインハン”と読むべきだ」なんて忠告してくれた大御所もいてね。
B:……時代を感じますね。
A:もっとも、私はその場でDBTを手放しで持ち上げたわけではありません。当時から、この治療法には大きな限界があると感じていましたから。
B:それを、その場で言ってしまった、と。
A:ええ。きっと皆、面食らったでしょうね。ある治療法を紹介するとは、その治療法の代弁者になることであるという日本の「属国的慣行」からすると、あり得ないことをしたわけですから。もっとも実証データが揃うずっと前でしたから、あくまで理論的・実践的な疑念でしたが。
B:でも、今振り返ると……。
A:その疑念は、ほぼ間違っていなかったと思っています。それについては当時から指摘していたので、決して後出しじゃんけんではありませんし。
B:現在のエビデンスを見る限り、DBTを含めた特異的治療法は、患者さんや家族が本当に望む改善――
自傷や自殺傾向、心理社会的能力の、臨床的に意味のある向上――そこには届いていない。
A:そういうことです。だからこそ、これまでとは発想の異なる治療法が必要なのです。
B:先生の新しいご著書では、その方向性が示されるわけですね。
A:ええ。患者が語る言葉について言語分析をおこない、患者が知らないうちに何を言ってしまっており、何をしてしまっているかについて明らかにした上で、そのデータに基づいて心理社会的能力を一つずつ回復させていく。それに伴ってBPDの症状も自然に消失していく。そうした治療の可能性について、書くつもりです。
B:患者さんにとっても、家族にとってもとても重要な本と言えるのではないでしょうか。
A:そうなることを願っています。
