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BPD寛解までの期間は2年か6年か?ー「BPD治療ハンドブック 訳者あとがき」補遺 その2

前回述べたのは、境界性パーソナリティ障害(BPD)患者の予後一般を、ある特定の治療法の治験研究に基づいて論じることは出来ない、という「当たり前以前」のような話であった。

ただし私が「BPD患者の半数は約6年で寛解する(診断基準を満たさなくなる)」という見解を支持するデータはない、と敢(あ)えて言ったのにはもう一つ訳(わけ)がある。

それはDavidson KM他の論文では、治療後に経過観察をしていた6年の間に追跡不可能になった患者の割合(脱落率)がー長期間の経過観察をおこなう研究ではありがちなことではあるのだがーフォローアップ研究をおこなう上で望ましいレベルに達していないことである。

どのくらいの割合の患者が追跡出来れば、そのフォローアップ研究が信頼に値するかに関しては、確かな経験則が存在する。

追跡不可能であった患者の割合が5%以下であれば、その研究から得られた結果の偏りは僅かなものであるが、追跡不可能な患者が20%を超えると、深刻な偏りが生じる可能性がある(Sharon E. Straus , Paul Glasziou他、第5版(2018) Evidence-Based Medicine: How to Practice and Teach EBM. London:Elsevier,p.185-199)。

なぜなら追跡不可能であった患者は、追跡可能な患者とは予後が異なっている場合が多いためである。

(なお予後研究に偏りを与える要因は、「脱落率」以外にも「代表的なサンプルが選ばれているか」「転帰を定める上での基準は客観的か」「予後の異なる下位グループが存在している場合に、その補正はおこなわれているか」などがあるが、Davidson KM他の治験にはそれらに関して問題になる点はない)

さてその視点からDavidson KM他の論文を見てみよう。

もともとのBOSCOT (Borderline Personality Disorder Study of Cognitive Therapy :BPDに対する認知療法研究) の治験に参加した患者の数は106名であり、そのうち76名に関してフォローアップ面接を行なうことが出来たとされる。

これは治験に参加した患者の約72%に当たり、追跡不可能であった者の割合は28%にのぼる。

治験に参加した患者の数は決して多いとは言えないから、上記の原則に照らすなら、この研究結果には深刻な偏りが生じている可能性があると言わざるを得ない。

(治験に参加した106名の患者のうち、実際に治療を受けた者は93名であり、Davidson KM他の論文のサマリーには「82%(=73名/93名)に関してフォローアップデータが得られた」と書かれているが、これは誤解を招きやすい表現であり、得られた結果について考察する際には、分母は106名にして計算すべきである)。

もっとも先に述べたように、BPDの長期予後研究で脱落率に関する上記の基準を満たしているものは決して多くない。

たとえばスペインで実施され、10年間で約半数(55%)のBPD患者が寛解したとされる長期フォローアップ研究も、ほぼ同じ問題を抱えている(Alvarez-Tomás .I他:LONG-TERM COURSE OF BORDERLINE PERSONALITY DISORDER: A PROSPECTIVE 10-YEAR FOLLOW-UP STUDY, Journal of Personality Disorders, Volume 30, 1-16, 2016)。

この研究に参加した64名のBPD患者のうち、10年後にフォローアップ面接を受けた者は41名であった。

これは参加した患者の約64%に相当し、追跡不可能であった者の割合は36%にのぼる。

参加した人数がもともと少ないことに加えて、4割近くの患者が脱落しているため、残念ながらこの研究から得られた結果にも深刻な偏りが生じている可能性は否定できない。

では上記の基準を満たし、BPDの予後をきちんと論じるに足りるような研究は存在しないのだろうか?。

数は少ないが、もちろんある。

たとえば奇しくもDavidson KM他の論文と同じ2010年に発表された、マクリーン病院成人発達研究(McLean Study of Adult Development : MSAD)がそれである(Zanarini.MC他:Time-to-Attainment of Recovery from Borderline Personality Disorder and Its Stability: A 10-year Prospective Follow-up Study,Am J Psychiatry. 2010 June ; 167(6): 663–667)。

この研究ではもともとの290名からなるBPD患者(マクリーン病院に入院歴のある者)のうち、10年後に面接をおこなうことができたのは249名であり、追跡不可能であった患者はわずか14%に過ぎなかった。

そしてこの研究によれば、BPD患者の半数が寛解する(診断基準を満たさなくなる)までの期間は約3年半なのである。

精度の面でMSADには及ばないものの、ほぼ同時期におこなわれた、比較的規模の大きな予後研究である、パーソナリティー障害に対する共同縦断研究(Collaborative Longitudinal Personality Disorders Study :CLPS)も、かなりMSADと類似した結果を示しており、この研究ではBPD患者の半数が寛解するまでの期間は約2年である(Gunderson.JG他 : Ten-Year Course of Borderline Personality Disorder :Psychopathology and Function From the Collaborative Longitudinal Personality Disorders Study,Arch Gen Psychiatry. 2011 August ; 68(8): 827–837.)。

これまで論じてきたことからおわかりだろう。

BPDの半数が寛解する(診断基準を満たさなくなる)までの期間に関して、「2年か6年(あるいは10年!)か」「研究によって大きな差があるが、それをどう捉えるか」ということは、現時点では殆ど問題にもならないのである。

「2年から3年半くらいの間」というのが間違いのないところであろう。

これが否定されるとしたら、今後より大規模で精度の高い予後研究がおこなわれた場合だけである。

こんな当たり前の結論に達するまでに、ずいぶん手間がかかった。

読む方もお疲れだったかも知れない。

だがBPDの寛解の時期などという、患者や家族にとって極めて重要な話題について、不正確な情報をメディアが安易に流布している以上、こうした手間を全く省くわけにもいかないのである。