「BPD患者の家族のためのガイドライン(J.G.ガンダーソン)」を読むーその15ー
「限界設定:率直に、しかし注意深く」という項目の続き。
これまで述べてきたように、ガンダーソンはBPD(境界性パーソナリティ障害)の患者が行う問題行動に対して、以下のような方針で対応するよう家族に勧めていた。
『自分の行為により生じる当然の結果から、家族メンバーを庇い立てしないこと。彼らが現実について学習できるようにすること。少々壁にぶつかる必要のある場合が多い』
さて今回は、状態が良くないにもかかわらず、患者が大学に復学すると主張し、金銭的「支援」を求めてきた場合の対応について取り上げる。
こうした場合、家族はどのように対応すべきであり、どのように対応してはならないのだろうか。
『症例3
精神科への入退院を繰り返しており、ずっと職に就くことが出来ないでいた20歳の女性患者。
彼女はフルタイムで大学に戻ると言い出し、両親に授業料を支払って欲しいと頼む。
娘が1日のほとんどをベッドで過ごすのを見ていた両親は、彼女が大学で1学期まるまる在籍し、単位を取ることができるかどうかを疑っていた。
そのうえ授業料を支払うのは、両親にとって大きな経済的負担だった。
それにも関わらず、両親はその計画を「支援」することに同意してしまう。
なぜなら両親は、彼女の社会的機能が低下しているという事実を、すすんで受け入れたくはなかったからである。
またもし両親が「支援」をしなければ、彼女が激怒することを恐れていたためでもある。
だがこれにより、両親は患者に対して「君なら出来るよ」という、根拠に乏しいメッセージを与えてしまっていることに気付いていない。
さらにまずいことに、怒りを露わにすれば両親をコントロールできるのを、彼女はこのエピソードを通して学習することになる。
より現実的な計画は、以下のようなものだ。
最も重要なのは、本格的に「支援」するのに先だって、大学にきちんと通い続けられるのを両親に対して証明して見せるよう彼女に求めることである。
具体的にはとりあえず1つの講義だけを取り、その単位を実際に取得できるかどうかで、それ以上の「支援」をおこなうか否かを決定すると彼女に告げること。
すなわち彼女が全面的復学を試みるのを許されるかどうかは、「お試し期間」中に彼女がどの程度の実績を上げられるかによると彼女に告げることである。
なぜなら、これまで彼女の精神症状は極めて不安定であっただけでなく、日常生活能力にも極めて乏しく、心理社会的機能に不全を抱えていることは明らかであったためである。
両親がこの計画を提示することにより、彼女は自分が最近示した社会的機能の低さに起因する当然の結果に直面することになる。
彼女はその結果を受入れ、引き受けるよう求められるのである』。
このケースに限らず、患者が何事かを始めたいという理由でさまざまな金銭的「支援」を要請する際に、それを受入れてしまう家族は少なくない。
家族に「支援」を求める理由が、患者が大学で勉強をするため、専門学校に入って仕事に必要な資格を取るためといった、一見したところ立派とも見えるようなものである場合には特にそうだ。
家族からすれば、夜中はずっとゲームやスマホをし続けた挙げ句、昼間は寝てばかりという生活をしていた自分の子供が、ようやく将来に向けて何かをしたいと言い始めたのである。
多少ーあるいは多々ー金銭的負担があっても、それを手伝ってやるのが親の務めだと考えたくなるのも無理はない。
だがガンダーソンは、「支援」をする前に、自分の子供の状態を客観的に観察し、評価するよう家族に勧める。
患者は学校にきちんと通い続けられるるほど、規則正しい生活をこれまで送ってきただろうか。
学校での勉強を継続する上で必要な勤勉さを、患者はこれまでーとりわけ最近ー示してきただろうか。
当然ながら、もしこうした条件が満たされていないなら、患者が首尾良く学校に通い続けられる可能性は低くなるだろう。
いや、今までは確かにそうだったかも知れないが、今回ばかりは他人から強制されたわけではなく、患者が自分の意思で勉強したいと言い出したのだから、大丈夫だと思いたい親もいるかも知れない。
(そしてまことに残念ながら、こうした親の思いを「後押し」しようとする専門家は、今でも決して少なくないのである)。
だがそれは、こうした患者の多くが抱える「自己同一性の混乱」という問題の深刻さを軽く見過ぎている。
たとえば彼らが立てた職業上、あるいは勉学上の計画は、しばしば些細な理由で、唐突に何回でも変わる。
このように言うと、信じ難いと思う人もいるかも知れないが、実際にはこれは「自己同一性の混乱」という症状の典型的な現れ方の一つであると言って良いのである。
だから、もし患者の望みに律儀に親が付き合い、その全てを実行させるだけの財力がある場合、極端な場合には以下のような仕儀に至ることがある。
高校中退後に引きこもっていた患者が、高卒認定試験に合格してからしばらくした後、突然英語を勉強すると言って外国の語学学校に留学する。
そこをほどなく止めて、今度は画家になりたいと言ってアートスクールに入学し直す。
そこもすぐに止め、帰国してから経営学を学ぶと言いだし、日本の大学に入学するが、通うことがないまま中退。
しばらく引きこもっていたが、突然漁業をやると言って住み込みで働き出す。
上司と合わないという理由でそこを短期間で辞め、また別の漁港で働く。
そのパターンを何回か繰り返す。
またしばらく引きこもった後に、今度は農業をやると言い出す。
親が住居や引っ越しなどのお膳立てをしてやった上で働き出すが、上司の方針が気に入らないと言ってすぐに辞める。
同じパターンを何回か繰り返した後に、以前にも増して引きこもるようになってしまう…………。
これは確かに極端な例ではあるのだろう。
だが私自身はこうしたケースを複数例経験しているから、こうした家族の対応が決して稀とは言えないこともまた確かである。
多くの場合、こうしたパターンに陥る患者はー語学はともかくー芸術に対して、経営学に対して、まして漁業や農業に対して、もともとさほど関心があったわけではない。
おそらくは何らかの外的な刺激(メディア、SNS、家族や友人の一言等々)をきっかけにして「閃いた」のである。
もちろん「閃く」こと、そしてその閃きに基づいて患者が「自分は農業をやりたい」とー例えば親に対してー宣言すること自体には何の問題もない。
問題は以下のような点にある。
「農業をやりたい」と宣言することにより、患者は農業をやりたいと「望む」という実践を始めたはずである。
だがこの患者には、そう宣言する以前に、「望む」という言葉が含まれるさまざまな(たとえば「英語を学びたいと望む」「画家になりたいと望む」「経営学を学びたいと望む」「漁師になりたいと望む」といった)社会的実践に継続的に携わることが出来た、という長期的な実績がない。
だからこの患者が「望む」という言葉を使っても、我々にはーそして患者自身にもーそれが何を意味しているのかが良くわからない。
「自己同一性の混乱」とはこのような事態を指す。
したがって、むしろ「望む」という言葉がどのように用いられるかー自分が「望んだ」と言うことにより、その後の自分の言動がどのような形で長期的に縛られていくことになるのかーについて、患者はこれから治療を通して身につけていく必要があるのだ。
それは幼児に言葉を教えるプロセスと、本質的には何も変わるところはない。
だから「大学で経営学を学びたいと望む」という例で言えば、少なくとも初期段階では「少数の授業に継続的に参加し、きちんと単位を取る」という、患者にとって単純で見通しのつきやすい活動のみに限定した方が、「望む」という言葉の意味を習得しやすい。
逆に「大学で経営学を学びたいと望む」ことにしばしば付随する、「他のさまざまな科目の授業を受けたいと望む」、「サークル活動に参加したいと望む」、「友人との交流を楽しみたいと望む」、「アルバイトをしたいと望む」といった複雑で多様な活動にいきなり携わるのは、患者が「望む」という言葉の意味を習得する上で、難易度が高すぎる場合が多いのである。
さて、ガンダーソンの「限界設定」というテーマからは、ずいぶんかけ離れたところまで来てしまったように見えるかも知れない。
だが子供が言語を習得するというのは、限界設定という側面を必ず伴うーある人物があることをしたいと「望む」と言ったなら、その人物はその後何をしても良いというわけではない!ーから、ここで論じたことは、限界設定というテーマとも決して無縁ではないのである。