ブログ

「BPD患者の家族のためのガイドライン(J.G.ガンダーソン)」を読むーその13ー

限界設定:率直に、しかし注意深く」という項目の続き。

境界性パーソナリティ障害(BPD)患者がおこなう問題行動の数々は、当然ながらさまざまなマイナスの影響を引き起こすことになる。

家族にとってマイナスの影響が出る場合も多いだろうが、患者自身にとってマイナスの影響が出る可能性だって決して少なくない。

そのような場合にどのように対応すべきか、というのが今回のテーマである。

ガンダーソンは、そうした場合に、家族は以下のように対応すべきであると主張する。

『自分の行為により生じる当然の結果から、家族メンバーを(かば)い立てしないこと。彼らが現実について学習できるようにすること。少々壁にぶつかる必要のある場合が多い』

これがどのようなことは、ガンダーソンが挙げている3つの症例に基づいて具体的に考えた方が理解しやすい。)

まずは自殺企図に対して家族がどのように対応すべきか、どのように対応してはならないかを例示するために、ガンダーソンは以下のような症例を挙げる。

『症例1

ある娘が母親の目の前で錠剤を一掴み頬張った。

母親は錠剤を吐き出させようとして手を娘の口の中に突っ込んだ

医療上の危険が生じるのを避けるために、このようなやり方をするのは合理的である。

それから母親は、救急車を呼ぶことを検討した。

娘には自殺傾向があるし、自分を傷つける危険があることが予想されたためである。

しかしそうすることを選んだ場合、非常に良くない影響がいくつか生じることになるだろう。

この娘と家族は、家の前に救急車が来ることで、ばつの悪い思いを味わうことになるだろう。

娘は病院を受診することを望んではいないし、もし母親が救急車を呼ぶなら、激怒して手がつけられなくなるだろう。

このような状況において母親は、救急車を呼ばずに済ませたいという強い誘惑に駆られることになる。

娘が激怒するのを避け、隣近所に対する家族の対面を保つためである。

実際には娘に差し迫った危険などないのだと自分に言い聞かせることにより、母親はこの決断を合理化しようとするかもしれない。

この選択をすることの最も重大な問題は、以下のようなことだ。

これまでも自殺傾向があったし、依然としてその可能性があるというのに、大いに必要な手助けが得られないようにしてしまうことである。

この母親は、娘が現実から目を背けることの手助けをしているのだ。

娘が自分を傷つける怖れがあるかどうかどうかを判断するには、医療に関する専門的な知識が必要とされる。

この娘の大それたふるまいに十分な注意を払わなければ、その行動はエスカレートする可能性が高いだろう。

彼女の行動がエスカレートするに連れて、彼女はさらに一層大それたふるまいをし、より深刻な身体的危害に直面する可能性がある。

さらに彼女の怒りを買うのを恐れて救急車を呼ばれなかった場合、彼女は以下のようなメッセージを受け取ることになろう。

それは<自分が激怒すると脅すことにより、他人をコントロールすることが出来る>というものである』

さて、この状況を把握すること自体はさほど難しくない。

母親の目の前で大量服薬しているということから、この患者は是が非でも自殺したいと望んでこのような行動を取っているわけではない、ということがわかる。

自分が死のうとしていることに対して「邪魔」が入る可能性は極めて高いのだから。

(1人で大量服薬した上で、電話やSNSを使って家族や恋人にわざわざ「さよならの挨拶」をする患者も同じことだ)。

したがって救急隊を呼ぶというのはーどれほど嫌がっているように見えたとしてもー必ずしも本人の意向に反する判断とは言い切れないこともわかる。

またこの患者は(おそらく)通院先がないのだろうから、大量服薬によりどれほど危険な状態になる可能性があるのかについて、主治医に相談することは出来ないだろう。

主治医の指導を仰ぐことが出来ないのなら、大事を取って救急隊に連絡を取り、医療の専門家たちの判断に委ねるほかはない。

患者の生命を守るということを第一優先にするなら、さしたる専門的知識がなくとも、こうした結論に達するのは容易だろう。

ではなぜこのケースで家族が逡巡するかといえば、もちろん「患者の生命を守る」こと以外の要因が影響しているためである。

「救急隊を呼ぶと、患者が怒り出すリスクがある」ということを例にとって考えてみよう。

この患者が救急外来を受診するなら、当然ながらさまざまな検査や処置を受けることになる。

救急医から精神科外来を受診するよう勧められることもあるだろう。

外来を受診するなら、精神科医から何らかの「病気」であると判断されるかも知れない。

これらはいずれも、大量服薬をしたという患者の行為によって生じる当然の結果ではある。

だがそれに対して患者が納得するとは限らない。

「親が自分をそうさせたーたとえば親とのトラブルがきっかけとなって大量服薬をしたーのに、<病気>と言われるのが自分の方なのはおかしい」という理由で不満を抱く患者は少なくない。

他方で親の側でも救急隊を呼びたくない理由はいくらでもある。

以前から患者が大騒ぎをしており、近所迷惑になるのではないかとヒヤヒヤしていたが、今回いよいよ救急隊を呼ぶ騒ぎになったことで、近所の人から非難されないだろうか。

非難はされないまでも、近所づきあいに影響が出たり、悪い噂を立てられたりしないだろうか。

そのことで家族はもとより、患者自身も肩身の狭い思いをすることになりはしないか。

残念ながら、大量服薬という患者の行為により、こうした結果がもたらされる可能性があることは否定できないだろう。

そして家族がその可能性を受け入れるのは容易なことではない。

ではどうすれば良いのだろう。

ここで重要なのは「短期的に得られる小さな利益」よりも「長期的に得られる大きな利益」の方を採るよう、患者や家族に対して勧めていくことだろう。

(「長期的に得られる大きな利益」よりも「短期的に得られる小さな利益」の方を採ってしまうというのが衝動性の定義だから、これはBPD患者やその家族が衝動的にならぬように、と言っているのと同じことだ)。

確かに救急外来を受診して処置を受け、自分の病気について診断や治療を受けるのは、誰にとっても愉快な経験ではない。

だがそれが病気であるからには、診断や治療を受けない限り改善されることはないだろう。

病気の改善という長期的な利益のために、我々の多くは不調を感じれば医師のもとを受診し、短期的にはしばしば不快な処置や治療を受ける。

患者は長期的に得られる大きな利益の方を採ることを、何としても学ぶ必要がある。

家族についても同じことだ。

近所で噂され、肩身の狭い思いをするのは、誰にとっても愉快な経験ではない。

だが患者がきちんと診断や治療を受けない限り、自宅で生じているトラブルの数々が減ることは、恐らく期待し難いのである。

家族もまた長期的に得られる大きな利益の方を採ることを学ばねばならないのだ。