「BPD患者の家族のためのガイドライン(J.G.ガンダーソン)」を読むーその2ー
今回からいよいよガンダーソンの「BPD患者の家族のためのガイドライン」の本文を読んでいくことにする。
(ただしかなり自由に、場合によっては批判的に読んでいくから、これから書くことが必ずしもガンダーソンの主張と一致しているとは限らないので注意してもらいたい)。
まずは第1セクションである「目標:ゆっくりいこう」から取り上げることにしよう。
まず治療をおこなう場合に、なぜ「ゆっくりいこう」ということを強調しなければならないか、訝(いぶか)しく思う人もいることだろう。
治療をおこなうのだから、なるべく早く治した方が良いのは当然ではないか?。
確かに多くの医学的疾患ではそうだろう。
だが境界性パーソナリティ障害(BPD)を治療する場合には、それが良いことばかりとは限らない。
なぜなら彼らは神経症傾向(未知なものや不確実なものに対する脆弱さと関連したパーソナリティ特性)が高いためである(Hirsh JB, Inzlicht M. The devil you know: neuroticism predicts neural response to uncertainty. Psychol Sci. 2008 Oct;19(10):962-7.)。
そのため、治療によって引き起こされた変化が、たとえ望ましいと見えるものであったとしても、BPD患者は感情的に混乱し、不安定になる可能性がある。
「ゆっくり(=変化を急激に引き起こしすぎないように)」ということを強調する必要があるのはそのためである。
ガンダーソンはこれについて以下のような形で説明している。
『変化を達成するのは難しいし、恐怖心を伴うのを忘れないこと。「大進歩」がみられたと仄(ほの)めかしたり、「君なら出来るよ」と元気付けたりするのには慎重であるように。「進歩」は見捨てられ不安を引き起こす』
こうした患者が、彼らの社会的機能が改善して来た、あるいはより多くの責任を担えるようになって来たと見える、まさにその時に症状が増悪する傾向があるというガンダーソンの指摘は正しい。
(ただしこのような患者の心理を「回復恐怖」と呼び、治療上の問題としていち早く指摘していたのは下坂幸三である[下坂幸三:神経性無食欲症に対する常識的な家族療法、家族療法ケース研究Ⅰ、金剛出版、p9-32,1988])。
ただし患者が不安定になるのは、必ずしもガンダーソンの言うような、「良くなったら見捨てられる」という不安に由来するとは限らない。
いわゆる「見捨てられ不安」ー回復したら今のように親に構ってもらえなくなったり、今まで免除されてきた責任や負担を再び担わなければならなくなることに対する恐怖感ー以外にも、患者が抱きがちな恐れには以下のような沢山のもがあるのだから。
それは例えば以下のようなことである。
回復したら学校や職場に戻らなければならないが、自分は周りに大きく後れを取ってしまっている。
遅れは取り戻せるだろうか。
そもそも周囲の人達は、そんな自分をちゃんと受け入れてくれるのだろうか。
受け入れてくれたとしても、人の後からついて行くなんて屈辱にはとても耐えられそうにない。
またガンダーソンは触れていないが、患者が回復し、現実的・客観的になれる度合いが高まるに連れて、自分の能力の限界を自覚せざるを得なくなることも大きい。
(彼らはコンプレックスを持つ一方で、秘かに大望を抱いていることが少なくないのである)。
これらさまざまな恐れがあること、そして先に述べたようにもともと彼らには変化に対する脆弱性がみられることを考えると、治療的介入を行ない、改善がみられることが症状の増悪に繋(つな)がる場合があるというのは、それほど意外とも言えないことが解るだろう。
だから治療者が、治療の初期段階からそのような可能性を患者や家族に対して説明しておき、面接の中で時々その問題を持ち出して再検討していくことは、トラブルなく治療を進めていく上で不可欠であると言って良い。
当然ながらその内容は一般的なものだけで済むはずはない。
むしろ個々の患者や家族の置かれた状況に応じて、かなり異なったものとなるのが当然だろう。
逆に言うなら、ガンダーソンが推奨しているような家族との関わり方(複数家族グループに対する集団心理教育)では、回復にまつわる恐怖や不安感という問題に対して充分な対処をおこなうのはとても難しい。
個々の家族に対する家族面接が必要になるのはそのためである。
このような介入を繰り返しおこない、患者が回復するという過程に伴う不安や恐怖を何回も繰り返し確認しておくことを通して、回復することに対する患者の恐れはかえって減少していくことが多い。