著書・訳書

「境界性パーソナリティー障害・クリニカルガイド」 (J・G・ガンダーソン著、黒田章史訳、金剛出版) 

■訳者あとがき

「私(JG)は家族を不当に中傷する原因となったり、家族を治療から排除するか、あるいは不適切な形で関わらせたりするという、大半は的外れな取り組みの原因となったりした文献を寄稿していた者である。だから境界例に罹患している人物の家族が治療者にとっての重要な協力者であり、彼らが精神病理の原因に何らかの関係を持ってきたかどうかに関する一連の問題を、大部分はうまく解決できるという見込みを持って始める治療を、今では私自身が提示していることに幾分かの気恥ずかしさを覚える」(Gunderson J.G.他: Families of borderline patients: A psychoeducational approach , Bull. Menninger Clin., 61(4), 446-457, 1997)

もちろん<家族を不当に中傷>したり、<家族を治療から排除するか、あるいは不適切な形で関わらせたりするという、大半は的外れな取り組み>をする羽目に陥った研究者は、本書の著者だけであったわけではない。むしろこれまで境界性パーソナリティー障害(以下BPDと略)の臨床に携わった者の中で、このような陥穽にはまらなかった者を探すことのほうが難しいだろう。しかし自分がBPD患者やその家族に対して、心ならずも不適切な介入を行う結果となったのを率直に認めるだけでなく、従来とは正反対ともいえる介入を行うことへと歩を進めることが出来た臨床家は、訳者の知る限り他にはあまり見当たらない。それが可能であるためには幅広い知識を持つ厳密な研究者と、積極的かつ誠実な精神療法家という、兼ね備えることのまれな二重の資質を必要とする。そして訳者にとってJ.G. Gundersonとは、何よりもまずそのような人物である。

本書Borderline Personality Disorder, A Clinical Guide(American Psychiatric Press 2001)の著者であるJ.G. Gundersonは、ハーバード・メディカルスクールの教授であり、マクリーン病院のパーソナリティーならびに心理社会研究部門、そしてパーソナリティー障害に対する外来サービス部門の責任者である。BPDに関する権威の一人というよりも、むしろこの障害の概念そのものの構築に大きく関わった人物として、著者の名はわが国でも良く知られている。しかしそのあたりの事情や経歴については、著者自身が序章や本論の中で詳細に記しているから、ここでは本書の前身となる1984年に出版された同名の書物が、BPDについて最も包括的な立場から書かれた、古典としての地位を確立していることを述べるだけに止めておく(同書については松本雅彦、他訳:境界性パーソナリティー障害 その臨床病理と治療、岩崎学術出版、東京、1988として邦訳がある)。本書は前著の続編という位置付けであり、著者も述べているように、記載内容および形式の両面に関して、前著からの大幅な変更が図られている。

本書の内容については著者自身が序論の中で的確にまとめているので、それに付け加えるべきことはさほど多くない。しかし6章から始まる療法についての諸章の配列、そしてそこで与えられている個々の療法に対する意義付けが、BPDに関する従来の書物のそれとはかなり異なることに戸惑う読者もいるかも知れない。すなわち本書ではさまざまな治療様式を併用するという方法の有効性が強調され、とりわけ初期には認知行動療法、家族療法、集団療法などの心理社会的治療が中核に置かれる。逆に従来最適な治療法であると見なされてきた、精神分析的基盤に基づく個人精神療法に対しては、対象とする患者を慎重に選択した上で行われるべきである―全ての患者に対して行うことは可能でないし、望ましいことでもない―という重要な留保が加えられる。

これは従来この障害の捉え方や治療の方法を良くも悪くも主導してきた、精神分析的な方法論に対して、以下のような2つの観点から見直しが迫られていることを反映したものである。第1に子供に対して親が与える影響は、これまで考えられていたほど明瞭なものではないことが、最近なされた養育研究によって次第に明らかにされつつあることが挙げられる(Collins W.A.他 Contemporary research on parenting. The case for nature and nurture. Am Psychol.55(2),218-32,2000)。たとえば親の養育行動に対して、子供がどのように反応するかは、子供がもともと持つ素因(predisposition)に応じて異なる。親の養育行動が子供の行動に影響を与えるのと同程度に、子供の行動は親の養育行動に影響を与えている可能性が高い。また親子間の二者関係を超えた、家族外の環境因子が養育に対して与える影響は無視できないことが、次第に明らかにされつつある。家族内の因子以上に大きな影響を与えている可能性すらある家族外の環境因子と、養育との間で生じる相互作用に関する研究は、ようやく緒についたばかりである。
第2にこれまでに唱えられてきた、精神分析も含めたさまざまな精神療法の流派の示す効果が、提唱者たちが主張するような理論や技法に主として由来するものであるかどうかについて、次第に疑念が抱かれるようになって来ていることが挙げられる(Wampold BE: The great psychotherapy debate; models, methods, and findings. Lawrence Erlbaum Assoc Inc, 2001)。精神分析、認知行動療法、家族療法、対人関係療法、SSTからEMDRに至るさまざまな精神療法が示す効果の大半(少なくとも70%以上)は、それら全ての治療法に共通した要素―その治療法にとって「非特異的な要素」と軽蔑的に呼ばれて来たもの(本書第11章)―に由来している可能性があることを近年の研究は示している。たとえば患者との間で治療上の協力関係を築くための方法を工夫することの方が、それぞれの精神療法に関して特異的とされてきたような理論や技法に基づいた介入を行うよりも、有効である可能性は高い。BPD患者と治療者の二者関係を超えた、患者が現実に暮らす環境(主として家族)に働きかけるのを介して治療関係の維持を図ること、他方でどのような治療法を用いる場合でも、彼らの精神病理に対応するために少なからざる修正を施す―疾患特異性の高いものへと変形する―必要があることを、本書の中で著者は繰り返し強調しているが、その背景にはこのような事情が控えているのである。

さて本書の持つ強い説得力は、著者が幅広い知識を持ち、さまざまな診断や治療的観点についてバランス良く検討していることに由来している。精神分析の訓練を受け、明らかに精神力動的な志向を持つにも拘らず、著者は薬物療法、認知行動療法、家族療法、そして集団療法といった他の治療形式を取り入れるのを躊躇しない。これは上記のような知見が近年得られていること、そしてかの国の医療がマネージド・ケア(コスト管理型医療)環境―有効性に乏しいと見なされた治療は容赦なく切り捨てられる―にあることを割り引いたとしても敬服に値する態度である。また著者はこれらの治療法の長所や弱点について検討する場合にも極めて慎重な姿勢を取り、たとえ実証的アプローチに基づいて得られた結論であっても、そのアプローチ自体の限界について指摘するのを忘れない。
ただしそのような著者自身の厳密な立論の仕方に従うならば、治療マニュアルに基づき形式化された形でなされた最初の精神分析療法として、第12章で紹介されているStevensonとMearesの研究についての極めて肯定的な評価は、以下のような理由でやや時期尚早であるように思われる。第1にこの研究が1992年に報告されてから10年以上経過しているにも拘らず、未だに正規の対照群をとった後続研究がなされていないこと。第2に治療を始めるにあたって親族あるいは親しい友人に対して面接がなされており、それが16%という低い脱落率に貢献していた可能性が考えられる(本書第9章を参照)にも関わらず、充分な考察がなされていないこと。第3に個人精神療法のみを用いた他の転帰研究から得られた結果と大きく隔たっているため、通常の臨床母集団を適切に反映していない可能性が指摘されていることである(Paris.J : Recent advances in the treatment of borderline personality disorder. Can J Psychiatry. 50(8):435-41. 2005)。しかしながら文献レビューのような無味乾燥な印象を持たせることなく、BPDにまつわる広範な領域について筋の通った判断を示したという本書の価値の大きさを考えるなら、このような瑕疵は些細なものと見なすことも出来るかもしれない。

訳者はこれまで患者や家族から、BPDについての参考図書を問われても、推薦するのにためらいを覚えることが多かった。この障害についての従来の通念を、場合によっては覆すことになるような、近年のさまざまな領域の研究に関する知見を充分に反映した書物は、これまでほとんど存在していなかったからである。本書を読了した後で、読者はBPDの治療で何がなされなければならないかについて、現在要求されている水準を把握することが出来るだろうし、さらに驚くべきことには楽観的な気分にすらなれるかも知れない。BPD患者の家族は、本書を読むことから大いに得るものがあるに違いないし、類書を読むことで味わわされることの多い、暗い読後感に悩まされることは少ないだろう。その意味で本書はBPDの専門家と患者や家族との間にある隔たりを埋めるという作業に、初めて成功した書物であるということが出来る。

本書では認知科学、行動科学、精神分析学などの知見が縦横に駆使されているために、それらの領域についてある程度の知識がないと、少々分かりづらい部分があると思われる。著者は本書を患者や家族などの、非専門家の読者にも読んでもらいたいという意向があるようだから、それを補う意味でかなり詳しい訳注をつけた。理解に資することだけを目的としたものであるから、少数の例外を除いていちいち出典を明記しなかったが、多くの学者の著書、論文を参照したことは言うまでもない。

本書には多くの方々のお力添えをいただいている。下坂幸三、中村伸一の両先生には訳語の選択について適切なアドバイスを頂き、とりわけ下坂幸三先生には訳稿の一部に目を通していただいた。深謝するほかはない。

最後に、本訳業のあまりにも緩慢な仕事ぶりが曲がりなりにも体をなしたのも、ひとえに金剛出版編集部の小寺美都子、熊谷倫子両氏の御宥恕の故である。厚く御礼申し上げたい。