「隠れBPD」という問題ーその2ー
前回述べたツィマーマンとベッカーの研究とは、アメリカのロードアイランド病院を受診し、BPD(境界性パーソナリティ障害)という診断が下された390名の患者を対象として、自傷行為や自殺行動を取った患者と取らなかった患者群を、人口統計学的および臨床的特徴に関して比較したものである。
そもそも彼らがなぜこのような比較を試みたかについて、最初に簡単に説明しておこう。
まず、BPD患者は通常の場合、併存している気分症(気分障害)、不安症(不安障害)、物質使用症(物質使用障害)等を主訴として受診する。
すなわちBPD患者がー少なくとも初診の際にーこの疾患を特徴づける重要な症状である「見捨てられることに対する恐れ」「慢性的な空虚感」「同一性の混乱」を主訴として受診することはまずない。
そして、抑うつや不安、パニック症状、物質使用に関する問題で受診した患者に対して、上記のようなBPDの特徴を併せ持っているかどうかについて尋ねる臨床家はー仮にいたとしてもー稀である。
それでも、もしその患者が自傷行為や自殺企図をしていたことが初診時に明らかになったなら、治療者がBPDの可能性について検討する可能性は、多少なりとも高まるかも知れない(何と言っても、自傷行為や自殺企図を繰り返すのは、BPDのトレードマークのように思われていることが多いのだから)。
しかしそうした症状がみられない場合、治療者は鑑別すべき精神疾患の選択肢の中に、BPDを入れることすらしない可能性がある。
そしてBPDに自傷行為や自殺企図がみられない可能性はー世の中のイメージとは裏腹にー意外なくらい高い。
むしろ、BPD患者を診断する上で、「自殺行動や自殺の脅し、自殺企図の繰り返し」という診断項目が示す感度(sensitivity : 患者が実際にBPDに罹っている場合に、その診断項目を満たしている確率)は54%と、全ての診断項目の中でも最も低い値を示すものの一つであることがわかっているほどである(Zimmerman, M., Balling, C., Dalrymple, K., & Chelminski, I.Screening for borderline personality disorder in psychiatric outpatients with major depressive disorder and bipolar disorder. Journal of Clinical Psychiatry, 80(1), 18m12257. doi: 10.4088/JCP.18m12257,2019)。
(因みにBPDの診断項目のうち、感度が最も高いのは情動不安定性であり、90%以上であった)。
自傷行為や自殺企図をおこなわないBPD患者が意外なほど多いことが、この疾患の過少診断の原因となっている可能性は高いだろう(Zimmerman, Chelminski, Dalrymple, & Rosenstein,Principal diagnoses in psychiatric outpatients with borderline personality disorder: Implications for screening recommendations. Annals of Clinical Psychiatry, 29(1), 54–60. 2017)。
したがって、BPDという診断をスクリーニングする上で、自傷行為や自殺企図の有無に重きを置きすぎるのは、本当は望ましくないのである。
そうした症状を持たないBPD患者など、実際には珍しくもないのだから。
ただしその一方で、では「自傷行為や自殺企図をおこなうことのないBPD患者」とは一体どのような患者群なのか、という疑問が湧くのもまた当然である。
例えば、そのような患者の病理は、自傷行為や自殺企図をおこなう患者に比べて軽いのだろうか?。
心理社会的機能に関して、両者に差はあるのだろうか?。
意外なことに、自傷行為や自殺企図といった派手な症状を示さないBPD患者を、示す患者ときちんと比較した研究は、これまでになされてこなかった。
その意味でも「隠れBPD」というのは、興味深く重要な問題なのである。
次回は、双方の患者群を比較した結果がどのようなものであったかについて説明することにしよう。