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「BPD患者の家族のためのガイドライン(J.G.ガンダーソン)」を読むーその8ー

前回の続きについて書く前に、少しだけ前回の内容について補足しておくことにしたい。

前回私が示した「コミュニケーションが危機的状況に陥ったら、そのことを患者に対して明示した上で、基本的にはやり取りを続けること自体を中止した方が良い」という指針について、ある人から以下のような質問を受けたためである。

BPD(境界性パーソナリティ障害)患者とは、いわゆる「見捨てられ不安」を抱きやすいことで知られている人たちなのだから、この指針自体に問題はないのか。

いくら穏やかに「これ以上やり取りをするのは却って良くない」と告げた上だとはいえ、その場から黙って立ち去るのは危険ではないか。

一見したところ、このような危惧は、まことに理に適(かな)ったものであるように思われるかも知れない。

だが上記のような危機的状況に陥った際に、相手(たとえば家族や交際相手)がその場にひたすら止まるならどうなるか。

なるほど、患者との「やり取り」自体は続くことにはなろう。

だがそれは患者の「他人の話を丁寧に追っていく能力」や、「自分にとって興味のない話や、不快な話を理解しようと努力する能力」が向上することを意味しない。

つまるところ「コミュニケーションの危機的状況」を無益に長引かせることにしかならないのは、火を見るより明らかである。

皮肉なことに、患者にとって文字通り「見捨てられ」を意味するような言葉(たとえば「もう疲れた」「別れよう」「もう支えきれない」「出て行け」等々)が、相手から発せられるのは、相手がその場に止まり、このような状況が延々と続いた後であることが多い。

「礼儀正しく穏やかに」その場を立ち去るのは、むしろ「見捨てられる」ような状況を作り出さないためにこそ必要なのだ。

さて本題に戻ることにしよう。

前回述べたように、ガンダーソンが作った「家族のための指針」の中には、むしろ「患者自身が実践すべき指針」として読み替えた方が、よほど臨床的に有益であると思われる部分が散見される。

危機的状況に対する家族の対応をめぐる、以下のような記述もその一つだ。

いかに不当であっても、あまり言い返さず、争わないようにすること。あえて傷つけられるがままにすること。批判されたことの中で正しいことがあればそれが何であれ認めること』

これを患者に実践するよう求めることに、抵抗を感じる人も多いことだろう。

BPD患者は、もともと他人に対して「言い返せず」「争えない」ために、「傷つけられるがままになってしまう」人たちではなかったのか。

確かにそうであるー「(家族を含む)親密な人との関係」を除けば、の話だが。

多くの場合、家族などの親密な人との関係になると、BPD患者のこうした傾向は逆転する。

「批判や非難」を不当に受けていると感じたーあるいは誤解したーだけで、交際相手や家族に対して「言い返し」「争い」「批判されたことの中で正しいことがあっても、それを認めることが出来ない」患者は少なくない。

一見したところ、上記の2つの態度は対極的であるように見えるかも知れない。

だが「コミュニケーションに躓(つまづ)きが生じた後、意味の相互伝達が成り立つ所まで辿(たど)り着くかどうか」という視点から見た場合、これら2つの態度が果たす機能は全く同一である。

どういうことか。

まずは患者が、「親密でない関係」の人達とコミュニケーションをおこなう場合について考えてみよう。

このような人達とコミュニケーションを行っている際に躓(つまづ)きが生じた場合、BPD患者は、相手の言動に良く分からない点や、納得のいかない点があっても、質問し返すことが(そもそも「自分には理解や納得が出来ていない」という事実を相手に伝えることすら)出来ないままに終わってしまうことが少なくない。

なぜなら私の著作(「専門家と家族のためのBPD治療ガイド(黒田章史著、岩崎学術出版)」)でも論じたように、こうした患者は、自分と他人の違いが明らかになるような状況ー「コミュニケーションの躓き(予想外のことが生じた「えっ?」という状態」)」が生じる状況ーに耐えられず、それを回避してしまう傾向が強いためである。

これは自他の違いが明らかになったのをきっかけに、その躓(つまづ)きがなぜ生じたかをテーマとしたコミュニケーションを、更に粘り強く続けることから、患者がしばしば時期尚早な形でー衝動的に!ードロップアウトしてしまうことを意味する。

当然ながら、きちんとした意味伝達が成立するに至ることはない。

では「親密な関係」にある人達とコミュニケーションをおこなう場合はどうなのか。

「親密な関係」にある人達との間で、コミュニケーションの躓(つまづ)きが生じた場合、BPD患者は自分の納得のいかない点、理解し難い点について、今度こそ遠慮なく相手に問い質(ただ)すことが出来る。

それはそれで良いとしよう。

だが問題は、その時の患者の問い質(ただ)し方が、しばしば非礼なほど衝動的かつ過激ー場合によっては暴力的ーな形でなされるため、今度は相手が、言いたいことも言えなくなってしまう所にある。

先ほども述べたように、BPD患者は「コミュニケーションの躓(つまづ)き」に対して極めて過敏で脆弱であるため、自他の違いが明らかになるような状況ではショックを受けやすい。

本当はその脆弱性は、患者自身の素因に起因する部分が大きいのだが、とりわけ親しい関係にある人達とコミュニケーションをおこなう場合、患者は自分が受けたショックを、相手のせいにして怒りだしてしまうことが多いのである。

そのため(親しい)相手は、BPD患者の言動に、良く分からない点や納得のいかない点があっても、しばしば質問し返すことが(そもそも「自分には理解や納得が出来ていない」という事実を患者に伝えることすら)出来ないままで終わることになってしまう。

ここでも、意味伝達がきちんと成り立つに至ることはない。

当然ながら、このような衝動性に任せたプロセスを患者が続けている限り、コミュニケーションに躓(つまづ)きが生じているような状況で、相手の主張を、相手の文脈に沿って丁寧に聞き取るという、極めて重要ではあるが、苦痛を伴う作業をきちんと行なうことは出来ないだろう。

逆に言うなら、患者が本当にコミュニケーション能力を上げようとするならーそして真に回復しようとするならー「傷つく」というプロセスを避けて通ることは出来ないということである。

だからこの訓練を「親密でない人々」との間で行なうことには、原理的に無理があると言わざるを得ない。

患者と取り立てて親しくもない人達が、このようなトレーニング(とそれに伴って生じるトラブルの数々)に付き合ってくれることは、まず期待することは出来ないからである。

治療者の指導の下に、「(家族を含む)親密な関係」という比較的安全な場所(相手との関係が簡単には切れてしまわない場所)の中で、トレーニング(と失敗)を繰り返すことが望ましいのはそのためである。

その作業を、「(家族を含む)親密な関係」の中にあっても、真面目かつ丁寧にやり通すこと。

それは患者にとって覚悟がいる作業だろう。

「あえて傷つけられるがままにする」決意をすることが、患者にとって重要なのはそのためである。